四代目中澤農園|オフィシャルサイト|北海道むかわ町 穂別

中澤家旬報

2021.12.19

「ばあちゃん、ねんね」

前の前の金曜日、12月10日の夜、こちらのジャーナルでも何度も登場してもらっていた「ばあちゃん」こと、和晴さんの祖母が自宅で急逝した。

同居していたわたしたち家族もみな想像もしていなかった突然のことで、心の準備のないまま喪主家族となり本当にバタバタとした一週間を過ごした。

初七日も終え、宿泊していた親族も皆それぞれの街に帰り、ひと段落した今思ったことを綴っておこうと思う。
わたくしごとなばあちゃんのお話、お付き合いいただければと思います。
悲しみを含む言葉もありますので、どうか読みたいタイミングで読まれてくださいね。

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亡くなってからの一週間思い浮かんだことをぽちぽちと日記のように書いていたメモより。

「ばあちゃんのその日」 12/11夜のメモ
ばあちゃんの亡くなった日の足取りを辿ると、なんてばあちゃんらしい一日だったのかとしみじみ思う。
昼は、和晴さんと私と木花と四人で、前夜ばあちゃんがつくってくれたあんかけご飯で一緒に昼ごはん。
ばあちゃんは日暮れまで豆よりをして、夕方に宮崎さん(ばあちゃんの実の娘一家)のお米でお茶漬けを食べて、着替えて自分で布団に入り、自分のベッドの上でその人生を終えた。「天晴だった」とみんなが言った。たしかに天晴だった。

「生き方」12/11夜のメモ
「農家としてのばあちゃんらしい最期だった」、と思い浮かんだ時、生き方を問われた。わたしは、何としての中澤さとみとして死ねるのだろう。

「何も無くなる」12/11夜のメモ
ばあちゃん何か気がかりなことあるかい、と小さな声で言ってみた。
耳を澄ませてみて、改めて、あの声を聞くことはないんだなと実感する。
亡くなるということは、何も無くなってしまうことなんだね。

「悔いないよう」12/11夜のメモ
夕方の仮通夜がはじまる前から具合が良くなく、お経の途中で目眩と冷や汗で途中からひとり三階の寝室で休んだ。一階からのみんなの声を聞きながら夢を浅く見た。
夢の中でわたしは、「思い浮かんだ善意は、悔いないよう相手に伝えよう」と心の中でしっかり思って、「話だけでもよければ今聞けるよ」と、目の前の大事な友人に伝え、並んで階段を登っていた。私は実際に、思い浮かんだ善意を、照れくさくて生前のばあちゃんへ伝えきれなかった。
ばあちゃんが、いつもどおりの日常を送ってはいるけれど体調があまり良くないんじゃないかと感じるようになってから、本当は手だけでも揉んであげたらとずっと思っていた。でもその気持ちは一度だけしか実行できなかった。なんだか照れくさかった。照れくさがっているうちに、ばあちゃんに触れることなく、ばあちゃんは逝ってしまった。ばあちゃん、 (ここでメモは終わっているのですが、「ごめんね」と書こうも、「しんどかったかな」「不安だったかな」「優しくなるね」と書こうとも、色々考えているうちに途中で終わったのでした。) 

「あった、あった!」12/12夜のメモ
二日目の仮通夜のあと、ぐずった娘を抱っこして、家の外の空気を吸いに出た。

ばあちゃんが嫁いできた頃に庭に植えられたという大きな松の木の向こうに、月が隠れているのが見えたとき、ふと思い出した。
ばあちゃんが亡くなったあの日の夕方、娘と歩いていたら、とても疲れた様子だったばあちゃんと家の裏で行き合った。いつもなら娘と会うと「こはな」と笑って声をかけてくれるのに、その日は笑いかけることなく歩きだして、ばあちゃんのいつもと違う様子を感じた。家の前まで回ってきたとき、娘が「あった、あった!」と松の木の影に隠れたお月様を見つけて指をさし、ばあちゃんが笑ったのだった。これから、月を見ると、このときのことを思い出すんだろうと思う。

「希望を持って」12/16午後のメモ
「自分でごはんを食べて、自分でズボンを脱いでベッドに入って、入れ歯もちゃんと取って、ばあちゃんは明日もあると思って寝たんですよね。」と電話口で、その日わたしが見たこと、これまで家族から聞いたことを頭の中で辿りながら先輩へ伝えた。そうして返ってきたお返事が「希望を持って眠ったんだね」という優しい答えだった。 胸が詰まって何も言えなかった。明日があるということはそれだけで希望なんだ。実際のばあちゃんがどんなことを思っていたかはわからないけれど、少しでも明るいものを持って眠っていたならいいなと願った。

「ばあちゃん、ねんね」12/16夜眠る前のメモ
夜、娘が仏間で遊んでいたときにばあちゃんの写真を見て「ばあちゃん」と言った。
12/14の出棺までずっと、「ばあちゃん、ねんね」と言っていた娘に、ばあちゃん、ねんねしちゃったね。寂しい?とまで言って、次の言葉を口にしかけて言えなかった。
「いつか会えるかな」と言いそうになって、「いつかはない、この姿の木花で、この姿の私で、あの姿だったばあちゃんとで、会うことはもうないのだ」ということに寂しくなった。

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そして昨日、ちょうど、お野菜の注文にと連絡をくださった方で以前祖母に会ってくださっていた方に亡くなったことを伝えた際、
「以前、人生フルーツの映画の中で、修一さんがいつもの生活の中で静かに眠りについてそのまま…という去り方に、わたしもこうありたいと思った」というお返事をいただいた。そのお話を聞いて、また一歩、ばあちゃんの最期の日を前向きに受け止められた。
たしかに、いつもの生活の中だった。

残った私たちには、救急隊の方が懸命に尽くしてくださる怒涛の刻々とした一時間、その後の悲しみと続いた幻のような一日だったけれど、時を止めたばあちゃんからは、「いつもの生活の中そのものだった」と言えるかもしれない。

あの日から一週間と少し、大勢の親族と縁ある方とお見送りの時間を過ごし、思い出話も涙から笑顔になった。
和晴さんのお兄さんが、幼い頃に大好きだったというばあちゃんの宝石の入ったオルゴール箱、「ばあちゃんの宝箱」を持ってきて、小さなひ孫たちみんなでキラキラに喜びながらひとつずつ好きなものを選んでなんとも明るい形見分けもした。

それでもやっぱりまだまだときどき悲しくなり今回生前の写真を選べませんでしたが、和晴さんが春くらいのDMで追悼のお話を書こうと言っていたので、もう少し偲ぶお話を書かせてもらうと思います。

今回、訃報を知った際にお心寄せてくださった皆様、誠にありがとうございました。


今年の5月、娘とばあちゃんを映した動画のなかにある大好きなシーン。ばあちゃん、木花を心から可愛がってくれて、ありがとう。