四代目中澤農園|オフィシャルサイト|北海道むかわ町 穂別

 

 

四代目中澤農園 – 歴史話

 

 

初代 由兵衛
初代 吉兵衛(よしべえ) は富山県で生まれ、明治38年に18歳で北海道に開拓民として入植しました。当初は現在の長沼町に入り、稲作を17町(約17ha)も行っていたそうです。作業のすべてを人力と馬に頼るしかない時代において、今の四代目中澤農園よりも大きな耕作面積を持っていました。
しかし、毎年のように洪水や川の氾濫にあい、植えた米も収穫出来ないこともあったことから、山あいの穂別の地に移り住みました。そこで製炭業を行うかたわら、家族が食べるための米を2反(約20アール) ほど耕作していたそうです。そうしたある時、穂別の地主さんから「3町の水田耕作」をもちかけられ米作りを再開、それからは水田耕作の経験を生かし「穂別で水田といえば中澤さんと言われるくらい、出来栄えがよく他に見られない黄金色の穂をなびかせていた」と評判になったそうです。

 

二代目 利幸
二代目 利幸(としゆき) は、吉兵衛の三男五女の末っ子として誕生。生まれてまもなく亡くなった長兄、戦死した次兄という環境から、私(四代目和晴)から見て祖父の利幸が代を引き継ぎ製炭業と農業を営みました。小学校卒業の年から農業に従事し、翌年の昭和20年には「4Hクラブ」に加わり土壌づくりの研究を仲間とともに実践していたそうです。しかし、農業ではまだ食えない時代。米や豆・かぼちゃ・砂糖大根(ビート)・乳牛のオスを預託し飼育したりと時代に合わせてつくるものを変化させていました。
昭和55年、穂別の地に「天皇陛下への献穀米」の話が舞い込み、利幸の圃場が選ばれ、祖母と並び皇居にて献上するという何にも代えがたい功績を得ました。私が幼少期から見ていた祖父利幸は、非常に温厚で、人からの信頼厚く、臆病な牛も大人しく近寄ってくるほど。いつも微笑んでおり、仕事は丁寧、生活は慎ましく。少々の晩酌と、毎日の日記が日課でした。

 

三代目 由幸
三代目 由幸(よしゆき) は、私から見て父です。由幸は、時代の変化をいち早く感じ取り変革を起こしていきました。日本国内の米の消費量が減少していたことから稲作をやめ、ビニールハウスを16棟建設、メロン栽培を中心とする蔬菜(そさい) 農家へと切り替えました。当時穂別全域で取り組んだメロンづくりは味・品質共に高い評価を受け「ほべつメロン」として多くの引き合いを受けました。また弟の浩は、貿易の仕事を目指しアメリカへ留学。現地の農家で研修するうちに「農業もやり方次第だ」と農業を志し、帰国後当時では非常に珍しい「新規就農」をはたし、アメリカで見た直売所をこの穂別でオープンさせメロンの直売を開始しました。その頃の穂別は札幌~帯広を結ぶルートにあり、夏になると大渋滞になり多くのお客さんで賑わいました。また由幸は、Googleがまだ日本になかったような時代からインターネットでの野菜販売もスタートさせ、このあたりから四代目中澤農園の直販事業が始まり、今なお経営の柱になっています。

 

四代目 和晴
そうして平成30年、当時28歳のときに和晴(まさはる) が事業継承し、「四代目中澤農園」として新たにスタートしました。先代の歴史を振り返りどんな農園を目指していこうかと考えたとき、先代が穂別の暑さ寒さ厳しい四季のなか必死の思いで開拓し大切に守ってきたこの土地から生まれてくる恵みと、野菜たちの育つ過程、また次代へ繋ぐべく枯れる姿も含めて、農園から見える四季折々の風景を添えて多くの人に届けたいと考えました。また自分の農業界の役割として、同世代の農業者を「育成」…というとかたいですが、農産物の生産からお客様へ直接販売することまでを行っている農家は多くない現状から、私の得てきた経験・スキル・人脈を分かち合い、ひいては北海道農業が元気になればと思っています。まだまだスタート地点に立ったばかりですが、従業員、お客様、田畑、地域、農業界、そして社会へと四代目中澤農園が小さくともしっかりと豊かな恵みを育てていきます。

 

 

四代目中澤農園の顔ぶれ

 

 

中澤 和晴 幼少期から家業である農業に親しみ、北海道拓殖短期大学の環境農学科で学び、ニュージーランドへ留学。1年間かけ十数件の農家をカウチサーフィンで渡り歩き、農業の楽しさ・自由さに触れ、「ライフスタイルとしての農家」の生き方を考えるように。冬季はスプリットボードでバックカントリー、夏季は農家。四季すべて自然のなかで生きています。2020年より日胆地区JA青年部協議会の副会長現職。守るべきところは守り、変えるべきところを変え、将来の食生産を担う若手農業者たちとJAの新たなあり方をつくっています。

中澤 さとみ 札幌生まれ。転勤族の家庭に育ち、大人になってからは会社員・一人旅・フリーランスと自由さのなかで働き、12回目の引越しで現在の穂別・四世代の暮らしに。21歳の頃「目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、思い出は思い出せるかもしれない」と考え、思い出に関わる仕事、ウェディングプランナーに。独立後は民官連携の企画のマネジメント、ライティング、ウェディングプランナーの先生など。現在、農園では広報にあたる部分を担当。L.Y.JAPAN SALVAGE YARD に参画しています。

中澤 木花 令和2年5月、北海道の桜の季節に誕生。中澤本家五十数年ぶりの女の子は、家のなかにブランコまでこしらえてもらい曽祖母と祖父母に毎日遊んでもらってすくすく成長中です。四世代みんなで一つ屋根の下で暮らしています。

 

廣瀬 亨(ひろせ とおる)
岡山県生まれ。2005年頃より勤務。北海道に移住する前にはバックパックで世界を旅したことも。現在は農園での仕事をこなしながら自分の畑で色々な作物を育て、美味しく加工するのもとても上手。とまとソースやライ麦パン。過去には自家製ビールなども!

原口 みゆき(はらぐち みゆき)
北海道生まれ。2011年より勤務、事務・経理を担当。ある日和晴の「みゆクッキングやりませんか」という無茶振りに軽やかに応え農園のお野菜を使った料理コーナーが時々登場します。二人兄弟を育てているワーキングママさん。

ほか、ベトナムから面接を経てやってきてくれた技能実習生の皆さんをはじめ、とき子ばあちゃんの友達や、叔父さん家族とのチームプレーで成り立っています。

 

 

スタンスのこと、穂別という地域について

 

 北海道で三代続いた農業を四代目としてどうしていくべきかをよく考える。先代がいままで守ってきた田畑を、更により多く人を喜ばせる田畑にしていくことが、先代から引き継き続けてきたお客様のためになり、従業員のためになり、先代たちへ感謝を伝えることになるんじゃないかと考えています。先代たちが開墾してくれたこの土地から生まれる恵みと香り立つような風景を、まるごとお届けできるような農業。「あなたの農家になる」という理念のもとこの土地の恵みを皆様とわかちあっていきたい。

 わたしが野菜をつくるときの農業知識の基礎になっているのは、小祝政明さんが提唱する、有機農業を科学的に解明した「バイオロジカルファーミング」です。ただ単に有機肥料が良くて化学肥料が良くないという話ではなく、肥料成分や土の性質・作物の特徴・植物のメカニズム・土壌微生物の種類や量・土壌物理性、他にもその土地の地形や気候・天候など植物が育つ環境を総合的に考え、整えながら有機農業を実践することによって、野菜本来の高栄養価・美味しさ・高収量、この3点を同時に叶えられる。「有機農業を科学的に」。四代目中澤農園では、その知識をベースに有機質肥料主体・減農薬栽培を行っています。

 農業はエコでグリーンなイメージがあるかもしれませんが、地球に対して環境負荷を与える存在でもあります。機械の動力を化石燃料に頼り、作物を育てるために暖房を使い、ビニール製品を多く使う。牛によってメタンガスも排出されている。農薬散布による環境汚染もある。四代目中澤農園ではこの現状を少しでも解消したいと考えています。日本は、肥料を輸入に頼っている現実がありますが、北海道にあるもので肥料をまかなうことが可能ではないかと思いリサーチをはじめました。2020年頃からは積極的に北海道産の肥料や、利用されずに処分されてしまっている未利用資源を肥料として活用し、「肥料も北海道産」とすることで環境負荷の軽減も目指しながら本当の意味での北海道産農産物になるようにチャレンジしています。

 広大な土地を全て無農薬栽培ということはまだ無理がありますが、動植物の環境に影響がある有機リン系農薬やネオニコチノイド系農薬に頼らない農作物づくり・可能であれば作物に除草剤をかけずに育てる・新しい技術導入も行いながら… 徐々に有機農産物化・低農薬化に向けていま栽培技術改良を行っているところです。当たり前のようですが、娘に食べさせたいと安心して思える農産物をお届けしていきたい。病害虫対策は農薬だけじゃなく、例えば、とうきびのてっぺんに咲く雄花には虫が付きやすい。そこへ農薬を散布するのではなく花粉が落ち次第すべて切り落としてしまう。虫が入り込む場所をなくすような「耕種的防除方法」も行います。

 最後に、この穂別という地域について。山に囲まれた盆地地形のもたらす寒暖差とマグネシウム分が多い「む川」という水源に恵まれた穂別は、ザ・北海道といわれるような大規模農業のイメージとは違う山あいの集落ですが、穂別ならではの「穂別の良さ」が詰まった野菜づくりがあります。大規模でないからこそまめまめと手をかけられる部分もある。この地域だからこその味わいの良さ、美味しい野菜をお届けします。一年一年のチャレンジ、見守って頂けたら幸いです。