四代目中澤農園|オフィシャルサイト|北海道むかわ町 穂別

 

お米について

「四代目中澤農園のルーツは稲作にあり。」
3Gと圏外の間を行き来するような山あいの田んぼ道を進み、車を降りるとヨモギの香りに迎えられた。宮崎家の田んぼがあるのは、ほぼ住人以外の車は通らない虫の声とお米を刈るコンバインの音が響く静かな山あいです。2020年より四代目中澤農園では、和晴のイトコで、同じ穂別で林業と農業を営む「宮崎 雄次(みやざき ゆうじ」がつくるお米を販売しています。もともとは、中澤家が毎日食べている宮崎家のお米がとても美味しく、一般販売をあまりしていないので「おすそ分け」の気持ちでお米の販売をはじめたのでした。お米のコラムでは、中澤農園のルーツから辿ってみます。

〈ルーツのお話〉 |初代| 中澤農園は、明治38年、中澤 由兵衛(よしべえ)が18歳で富山県から北海道の長沼町に入植したところから始まりました。大正3年、27歳でリンと結婚した頃には17町(5万1千坪)の水田を作るまでになっていた。大正10年に稲作から林業に転換、似湾(にわん)村、穂別村の山林へと移動して製炭業のかたわら家族が食べる程度の米を耕作していた。ある時、3町(9千坪)の水田の耕作をもちかけられ本格的に米作りを再開。長沼で培った水田耕作の経験を生かし、「穂別で水田といえば中澤さんと言われるくらい、出来栄えがよく他に見られない黄金色の穂をなびかせていた」と評判になっていた。妻リンとの間に3男5女に恵まれたが長男・長女・次男を病と戦争で失い、末っ子の「利幸(としゆき)」が後継者となる。

|二代目| 利幸は小学校卒業と同時に農業に従事し、翌年、中澤農園二代目となり少年とも言える時代から稲作に励み続ける。昭和46年頃には穂別ではじめての共同育苗を提唱、地域の人たちの作業負担軽減を推進しながら、良質な米作りをめざし土作りに力を注いだ。昭和55年、宮内庁行事の新嘗祭の献穀に選ばれ、同年10月20日、皇居にて妻とき子と献穀米を献納をさせていただく。
(写真1/昭和55年10月5日、献穀米に持参する米の刈取り清め祓い式(かりとりきよめばらいしき) 風景。写真2/昭和50年代、利幸じいちゃん・とき子ばあちゃん。宮崎家の水田へ、稲起こしの手伝いに。仕事風景の貴重な一枚。)

|三代目| 利幸の長男由幸(よしゆき)が後継し、時代は減反政策であり複合経営の道を選びメロンづくりを中心とする蔬菜(そさい)農家に転換、稲作を終えることとなる。長女晴美は林業と米作りをする宮崎 陵滋(りょうじ)と結婚。利幸・とき子は宮崎家の稲刈り時期には毎年手伝いに行き、特に稲の倒れた水田を見ながら土作り、水管理の助言をしたという。
 
そして現在四代目。 中澤農園・和晴のイトコ宮崎 雄次が作る米にはこんな歴史があり先代たちが機械のない時代から積み重ねてきた知恵が伝わっています。

 

〈お米について〉 むかわ町穂別の中央を流れる一級河川の「鵡川」は、日高山脈の蛇紋岩地質から流れ込むマグネシウムやカルシウムといったミネラル分が豊富な川で、水質も一級河川水質ランキングで全国1位に輝くような清い流れです。この鵡川に溶け込むマグネシウムが穂別のお米や野菜を美味しく育ててくれ、また宮崎家のお米は収穫したあとの乾燥も大切にしており「昔の“はさがけ”のように、温度を急に上げず低温でゆっくり一晩かけて乾燥。急乾させないことで味に違いが出る」と言います。

なお、お届けしているお米のおもてラベルに書いた「山をつくる人の作ったお米」というフレーズについて。宮崎家は冬は林業家、緑のシーズンには農作物や米をつくる農家として暮らしています。以前、米作りをはじめて50年を超えた陵滋(りょうじ)さんに田んぼのうえで、「山でどんなお仕事をされているのですか」という質問をした際、「木を植える場所をつくっている」とおっしゃった言葉が素敵だなと思い取り上げたのでした。穂別は山に囲まれています。それら山はいわゆる里山なのだろうと思います。人の手の加わった、自然界に馴染んだ山。その山をつくっている人たちなのだと。そんな穂別 四代目イトコの宮崎家のお米、販売期間は限られていますがぜひ一度召し上がってみてくださいね。中澤家も40年間ずっと食べています^^

 


収穫時期: 9月下旬〜10月上旬
販売時期: 11月〜12月末まで
特記事項: 9月告知にて、「年間定期購入」のプランもご用意しています。数量限定のため年に一度、9月にだけご予約承っております。(2021年度分は完売しました)

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